お遍路めぐりの原型としては、弘法大師様が巡っていた平安時代からありましたが、ルートは定かではなかったとされています。
弟子や江戸時代の書物により、次第に現代のような札所が作られ広まっていったとされます。
ただ、お遍路文化はずっと安泰であったわけではなく、存続の危機にも遭って来ました。
現代ではお遍路の形が出来上がっているため、昔からこのようなものと考えられがちですが、実は歴史上苦難を乗り越えた結果となっています。
では、あまり知られていない消滅の危機について解説をしていきます。
明治の神仏分離令
日本史の勉強が好きな方なら聞いたことがあると思いますが、明治時代に神社とお寺の役割を完全に分けなさい、というお触れが出されることになります。
それまでの神社とお寺というのは、今のように神社には神主さん、お寺には僧侶というきちんとした区分けがされていなかったようです。
柔軟に対応していたといえば聞こえは良いのですが、お坊さんが神社で奉仕したり、逆に神具をお寺で使ったりと流動的でした。
これを明治政府は良くないとし、神社とお寺の役割をきちんと分けるようにと、神仏分離令を出します。
これによりお坊さんが神社に行ったりすることが無くなり、明確に役割を分けることが出来ましたが、同時に弊害も起こりました。
それが廃仏毀釈(はいぶつきしゃ)、つまり仏教を排除するという運動に繋がり破壊されることになります。
結果的に仏像などの重要文化財が失われることになってしまい、歴史的な遺産がいくつも無くなってしまいました。
加えてお寺の存続についても、否定的な運動が起こり、一時は全国各地で廃寺となるところが続出してしまうことになります。
四国のお寺も例外ではなく、止む無く移転したり、神社に変えさせられたりと一時はお遍路も88箇所揃わないという自体も起きました。
因みにこの影響が残っている札所がありますが、香川県観音寺市にある、68番の神恵院と69番観音寺です。
ここは同じ敷地内にお寺が二つあるという珍しいものですが、神仏分離令による廃寺の影響によるものです。
戦争などによる影響
明治時代にこのような迫害に近い形を受け衰退しますが、更に第2次世界大戦でも衰退することになります。
日本全国が、戦争で大変な思いをしている中で、お遍路めぐりどころではなかったことは容易に想像できます。
自分の生きることだけで精一杯だった時代では無理もありません。
お遍路もあまり行われなかったということもあり、お遍路文化も衰退し、しばらくはお遍路人口も減ることに。
最近のように、四国イコールお遍路というイメージが定着し始めたのは1990年ごろと言われ、大きく様変わりすることになります。
以前はやはり修行の一環として行うのがお遍路でしたが、今では自分探しの旅など癒しの意味も含まれるようになります。
ストレスやパワハラが多い現代社会では、納得できるような気がします。
存続も危ぶまれるほど衰退することもあったお遍路ですが、再び活況を取り戻したのは良いことだと思います。