お遍路めぐりにゆかりのある人物と言えば、多くの方は弘法大師様を想像するでしょう。
歩きお遍路のルートは、弘法大師様がめぐった道すじが原型であると言われ、現在でも踏襲されています。
その後幾たびか札所であるお寺が移転したり、廃寺になったりしてルートが若干変わっていますが、おおよそは昔のままです。
現在ではこの歩きルートも、バスツアーなど舗装路を通るようになり、歩いて通る人は極端に減りましたが今も健在です。
さて、お遍路のルーツというと弘法大師様という声が多いのですが、まれに空海と答える方もいらっしゃいます。
実はどちらも同じ人物で、呼び名が違うだけですがどんな違いがあるのでしょうか?
歴史を交えながら解説していきます。
生前は空海と名乗った
歴史に詳しい方ならご存知かと思いますが、学校の授業でも名前を聞いたことがあるでしょう。
西暦774年に、現在の香川県善通寺市に生まれ、幼少の頃の名前は佐伯眞魚(さえきのまお)と呼ばれていました。
10代前半から仏門に入り修行をすることになりますが、24番最御崎寺(ほつみさきじ)近くの御厨人窟(みくろど)で修行をしていた時の逸話があります。
そこで修行をしていた際、洞窟から見えるのは海と空だけであり、悟りを開いたことから空海と言う名を取ったと言われています。
以来、有名な遣唐使として、当時の天皇の命により唐に渡り、仏教を勉強し日本に持ち帰ることになります。
日本に帰国後は、布教活動に努め高野山に密教の総本山を建てることになります。
その後は、なおも精力的に四国を中心に全国を回り、困っている人を助けたりするように。
この功績が現代でも言い伝えとして残っており、いろんな史跡に刻まれるようになりました。
弘法の○○と呼ばれるところは、ゆかりがあることが多いので書いてある文言を確認してみると良いでしょう。
この頃に、四国をめぐったルートが歩きお遍路道の原型となったということになります。
弘法大師は死後いただいた名前
空海は活動に尽力しますが、834年(60才の時)に高野山奥の院に入定、つまり即身仏(ミイラ)として永遠の修行に入ったとされています。
ということは、亡くなった時には空海と名乗っていたということになるわけです。
亡くなってから約100年後の921年に、醍醐天皇から弘法大師の称号を授けられ、この名が以後語られるようになりました。
このことから厳密には、お遍路の基礎を作ったのは空海であると考えられます。
が、功績をたたえられた証である弘法大師様と呼ぶほうが、より敬意を払った呼び方になるのでこちらを使う方が多いようです。
因みに敬意を表し、お大師様、空海さんなどと呼ぶようです。