四国お遍路の原型は、江戸時代に出来上がったとされています。
つまり、88箇所の札所を巡って巡礼をするというスタイルが認知されていた、と言うことになります。
一説には、発行された小説で四国の巡礼として、お寺を88箇所回ったということが記載されていたそうです。
その流れのまま以降数百年、現代まで継承されたとは、なかなか考えにくいですが、始まりは江戸時代で正しそうです。
さらに遡ると1000年以上前に、弘法大師様が四国巡礼をし、巡ったことが始まりとされていますが、ルートは定かではありませんでした。
日本は仏教が普及していましたので、四国お遍路だけでなく、巡礼とされるものは全国各地に存在しました。
何らかの理由で廃れてしまったものもある中で、四国お遍路だけは残っていると言うことから、四国の方の信仰心は凄いものだと感じます。
実際にお遍路をすると、いろんな方からお接待を受けることがありますが、このような風習が残っていることからも信仰心の深さを感じることでしょう。
では、昔のお遍路、特に平安の時代とされる江戸時代はどのようにして、巡っていたのか説明していきます。
目次
歩くことは日常茶飯事
江戸時代の移動手段としては、当然エンジンなどの動力源はありませんでしたから、人力や動物の力に頼ることになります。
馬に乗る、かごを使う、自分の足で歩くの何れかでしょう。
ただ、馬とかごは料金を払う必要があることから、これで四国一周したとは考えにくくなります。
となると残るは歩き、と言うことになりますが、江戸時代の人は当たり前のように毎日歩き移動していたため、相当な健脚であったと言えます。
一度読んだ、東海道の旅に関する書籍にも、1日に10里は軽く歩いた、つまり40キロと言われるほどです。
現代の人が40キロ歩くとなると、すぐには無理で、1ヶ月ほどトレーニングが必要になります。
車での移動が多い現代人が、体が弱くなるとか、体力が無いなどと言われるのは仕方ないことかもしれません。
昔は死と隣り合わせ
江戸時代に限らず、車が無い時代には、自分の足が頼りでした。
ということは、足に怪我をしたり、エネルギー不足や体調不良で倒れた場合は、動けなくなると言うことです。
これが山の中で起こったとしたら、動物に食べられるか、そのまま衰弱して死ぬか、どちらにしても無事では帰って来れません。
それにお遍路道には、遍路転がしと呼ばれる急坂やキツイ道がたくさんあります。
もちろん現代のように整備されておらず、がけ崩れや落石などはよくあったことでしょう。
お遍路をしていると、道中の道端にお地蔵さんが置いてありますが、昔お遍路の途中でなくなった方の慰霊のためと聞いたことがあります。
このように昔は死と隣り合わせの状況の中、修行を積み、自分の願いを達成していたと考えられます。
ゆえに現代でも、白装束、菅笠、金剛杖で回りますが、それぞれあの世に行く服装を模した物になっています。
白装束は言うまでも無く、死んだ方に着せる服であの世に渡るための正装です。
菅笠は、死んだ人の顔を隠す白い布の代わりで、道端で亡くなったら顔に被せてもらいます。
金剛杖はよく見ると梵字が書いてありますが、お墓で見る塔婆にも書いてあります。
これは墓標の変わりで、亡骸を埋めて墓標として立てていた名残と言われています。
これらからも分かるように、道も悪く、宿場町もそれほど無く、病院なども無い時代には、決死の覚悟が必要だったようです。